
「作ることが好きだったはずなのに、最近なんだかしんどい。」
そんなふうに感じたことはないだろうか。
ハンドメイドは、自分の中にある世界を形にできる、素晴らしい創作活動だ。
けれど、それを“仕事”にした瞬間、急にうまくいかなくなることがある。
その原因のひとつが、アウトプットよりもインプットが多くなってしまうことかもしれない。
私自身の経験をもとに、「どうすれば自分らしく創作を続けられるのか」について考えてみたいと思う。
ハンドメイドは、じつはアウトプットのかたまりだった
ハンドメイドは、ほとんどすべての工程がアウトプットでできている。
デザイン、素材、色、形、魅せ方──どれもが自分の感覚や世界観を表現する手段だ。
作りたい気持ちがあるときは、「これを作りたい!」という衝動に突き動かされる。
だが、周囲の声に耳を傾けすぎると、自分の軸がブレてしまう。
ものづくりの仕事は、「自分が好きな世界」を形にすることだ。
だけど、最初から明確なゴールを持っている人は少ない。
多くは続けていくうちに「自分の好き」や「心地よいテイスト」に気づいていく。
その過程で気をつけたいのが、人との関わりだ。
イベント出展や接客を通して、「このテイストが人気なんだ」と思い込んでしまうことがある。
そして気づけば、
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他人の好きなものが入り込む
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自分らしさが薄れていく
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「本当に作りたいもの」が見えなくなる
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作ること自体が楽しくなくなる
という流れにはまりやすい。
“好き”がにごると、作るのがつらくなる
周囲の意見、特に親しい人のアドバイスは注意が必要だ。
たとえ善意でも、それはその人の価値観であり、あなたのものではない。
私自身、革でアクセサリーを作り始めた頃に、近しい人からアドバイスを受けて苦しくなった経験がある。
「なんか違う」「ここをこうしたら?」といった言葉を重ねられるうちに、自分はダメなんだと感じてしまった。
それでも作り手は、他の誰でもない。自分自身なのだ。
だからこそ、どんな完成形になろうと、まずは自分の“好き”を形にしていくこと。
数をこなして、感覚を磨いていくことが何よりも先だ。
そのとき、周りの声は必要ない。ただ、自分自身と向き合えば、それでいい。
自分の“好き”に戻るために、アウトプットができること
何かにつまずいたとき、外に答えを求めるのではなく、自分の中にある「なぜ?」「どうして?」「どうしたい?」という問いに向き合ってみる。
その答えは、他人から与えられるものではなく、自分でしか見つけられない。
では、どうするか? それが、アウトプットだ。
まずは、自分がどこにつまずいているのかを、文字にして整理する。
思い浮かぶ限りのデザインを描き出す。
「私はどんなものが好きなのか」「どんなふうに表現したいのか」を細かく言語化していく。
描いてすぐに答えが出るわけではない。
けれど、それを何度も繰り返していくうちに、少しずつ“自分のテイスト”が見えてくる。
そして、試作を重ね、ブラッシュアップしていく中で、ようやくたどり着く。
これが私の世界だ。私にしかできないものづくりだ。
そう胸を張って言える瞬間は、アウトプットの先にしかない。
インプットは、“迷ったとき”ではなく“進みたいとき”に使う
つまずいたとき、人はつい外に答えを求めてしまう。
私もそうだった。
けれど、答えを探すうちに、かえって分からなくなることが多かった。
とくにハンドメイドにおいて、「何が正解か」を探すようになると、作品がどこかよそよそしくなり、自分の“好き”がにじみ出なくなる。
インプットが本当に役立つのは、
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スキルアップしたいとき
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マーケティングや仕組みを知りたいとき
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新しい挑戦をしたいとき
そういう“進みたい気持ち”があるときだ。
ただし、「売上を伸ばすためだけ」にインプットするのはおすすめしない。
なぜなら、「売れるため」に作る思考が強くなりすぎると、心のエネルギーが先に尽きてしまうからだ。
私自身、売上だけを見て行動していた時期があった。
数字は伸びたかもしれないが、心の中はどんどん疲れていき、
「これって本当にやりたかったことだったっけ?」と、自分を見失ってしまった。
長く続けるには、「やりたい」という感情の火種を絶やさないこと。
それこそが、何よりも大切な原動力になる。
“好き”を手放さなければ、ものづくりはきっと続けられる
ハンドメイドは、自分の中にある世界と対話する手段だ。
自分の感覚を信じ、アウトプットを重ねていくことが、唯一無二の表現につながっていく。
迷ったときは、手を止める前に「自分の中に戻る」こと。
それができれば、どんなに遠回りに見えても、自分だけの道を歩いていける。
自分の中にある“好き”を、絶対譲らないこと。
それこそが、自分らしいものづくりを続けるいちばんの原動力だ。
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