
教えることは、奪われることだと思っていた
過去の私は、革花の技術を誰かに教えるのが、怖かった。
それは、教えること=奪われることだと思っていたからだ。
でも、今の私は、もうそんな風に思うことはなくなった。
ここに至るまでの出来事や、心境の変化から、教えることとはどういうことなのか私なりの考えを書いてみたい。
技術を盗まれるかもしれないという恐怖
私が、革花の作り方を初めて教えたのは2020年のこと。
県立美術館で、革花アクセサリー講師としてワークショップを開くことになった。
それまで、日々試行錯誤しながら作り上げてきた革花の技術を、誰かに教えるなんて…と、当時の私は思っていた。
もし、このワークショップをきっかけに、技術を盗まれてしまったら、私がこれまで作り上げてきたものが全部なくなってしまうのではないか?という不安や恐怖が、一気に押し寄せてきた。
それまで「革で花を作りたい」という情熱と探求心だけで数年を費やしてきた私にとって、革花の技術は、宝物のような存在。
だからこそ、誰にも教えたくないという感情が湧くのは当然のことだった。
まだ“完成”していないという葛藤
技術を盗まれるかもしれないという感情の中には、もうひとつ、複雑な思いもあった。
それは、私の中で革花がまだ“自分の手で完成させたい途中”にあったからだ。
当時の私は、革花としては珍しい技術を持っていたけれど、今思えば、まだ50点くらいの出来だった。
だからこそ、この時期は、未完成のまま誰かに渡したくなくて、完成するまでは自分の力で磨き上げたいという思いが強かったのだと思う。
教えてもなくならないもの
あれから5年後の今思うことは、教える=自分からなくなるものではないということだ。
もちろん、情報として技術を教えることには多少のリスクは伴う。
けれど、教えたからといって、私が積み重ねてきた時間は誰にも奪うことなんてできない。
私がどんな風に作り上げてきたかを、ゼロから知る人はどこにもいない。
ましてや、試行錯誤する中で考えたことや、答えにたどり着くまでのプロセスは、技術(という名の答え)を知ったところで分からないのだ。
私がこれまでの経験で一番大切にしてきたのは、たどり着くまでのプロセス。
失敗の数こそが、その技術を作っていく。
だから、技術を教えたところで、それがゼロになることはない。
ワークショップで教えた時に感じた不安は、私がまだ経験が浅いと考えていたから生まれた感情だと今は思う。
逆に言えば、あの感情を味わうことがなければ、もっと技術を磨こうとも思わなかっただろう。
だから、あの時、不安や恐怖を感じることができて良かったと心から思う。
教えることは、自分の学びに直結する
私は、人に教えるということは、自分自身が誰よりもそれを理解していなければならないと考えている。
特に、ものづくりのように答えのないものに関しては。
自分の頭で考え、自分で方法を見つけ出し、答えを追い求めていく。
この一連の流れができていなければ、到底教えることはできない。
考えているだけでは教えられず、順序立てて、分かりやすく伝える必要がある。
だからこそ、教えるということは損することではなく、自分の学びに直結することなのだと考えるようになった。
『ギブする』とは、価値を生み出すこと
ギブ&テイクという言葉がある。
ギブは与えること、テイクは受け取ること。
以前の私は、ギブは損することだと思っていた。
ワークショップの講師をした時、それを強く感じていた。
教えることで、自分が技術を盗まれるかもしれないリスクがあるのに、何の得があるのだろう?と。
それ以外の時でも、損得勘定でものごとを見ていた。
人間誰しも損はしたくない。損せず、何かを得たいと思うものだ。
与えることで生まれる価値
けれど、今の私は、全く逆の考えを持っている。
私は、自分が持っている革花の技術を惜しみなく教えている。
(あまり教えるという言葉は使いたくないけれど、説明として使わせてもらう。)
このブログに書いていることは、私のすべてだが、いわばリスクしかない。
でも、それでいい。
数年前、私が「革で花を作りたい」と思った時、どこにも情報がなくて、誰にも教えてもらうことができなかった。
結局、私は人生の8年間を革花作りに費やした。
それは私にとって、時間というリスクを冒してたどり着いたものだ。
その8年間を、私が持っている技術や知識を教えることで、誰かが使うであろう人生の時間をグッと短くすることが出来たらどうだろう。
それができたら、どんなに価値があることかと、今の私は思う。
革花の世界を、次の誰かへつなぐということ
もちろん、革花を作りたい人のためにしかならないけれど、革花の世界が、今後どんなふうに発展していくかなんて、誰にも予想できない。
それならば、私は、誰かにこの技術を渡して、もっともっと革花をすばらしい世界にしてほしい。
私ができなかったことが、誰かの手によって叶うとしたら、どんなにすばらしいだろうと、想像しただけでワクワクするのだ。
私は、ギブすることが損することではなく、こうした循環であると考えている。
人間いつか必ず人生に終わりが来る。
でも、私がこの世からいなくなっても、革花の世界だけは、ずっとなくならないでほしいと願っている。
そのためには、この技術を誰かに渡すしかない。
命と同じように、循環させなければ、革花の世界は終わってしまうから。
そうした思いから、私は、2025年から革花に関することのすべてをここに書き残している。
革花の世界のすばらしさを伝えたい。
美しく、繊細な、この世界を残すために。
ギブ=与えることだと思うと、やや上から目線に聞こえるかもしれないけれど、そうではなく、持っているものを無償の愛で渡すことだと、私は考えている。
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▶ この記事の背景となった出来事は、下記の記事で綴っています。
長崎県立美術館での革花ワークショップ|アートとして伝える初めての体験
この記事は、「ものづくりで生きるということ」というカテゴリの中の一編です。
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