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私は、毎朝、自然の中に身を置くようになってから、子どもの頃のことを思い出した。
そこには、誰からの評価もなく、どんな自分でも許される世界があった。
…はずなのに。
私は、いつから、自分を見失ってしまったのだろう。

子どもの頃の私は、どんな小さなことでも「変わってる」と言われるのが怖かった。
学校に行くようになってから、世界には“ルール”があることを知った。
みんなと同じことをできること、集団の中で協調できること。
それが「正しい」とされる世界。
ただ自分の思ったことを話しただけで、「そんなこと言ったらだめだ」と叱られる。
そのたびに、自分の心の声を閉じ込めていった。
自由だったはずの心が、いつの間にか小さな箱に押し込められていった。
母が人に向かって私のことを「おとなしくて、しっかり者」と言うのを何度も聞いてきた。
それを裏切ってはいけない。
私が“そうであること”が、みんなの安心につながるような気がして。
だから私は、期待に応えようと必死だった。
でも、そのうちに、
“本当の私”はどんどん小さくなっていった。
人と違うことを言わないように、波風を立てないように。
気づけば、“息を潜めて生きる”のが当たり前になっていた。
大人になってからも、その癖は抜けなかった。
社会に出て、「協調性がない」と言われることが増えた。
行きたくない飲み会を断ると、「空気が読めない」と笑われる。
嫌なことを嫌だと言うだけで、人との距離ができていく。
だから私は、笑顔でいようとした。
いい人を演じ、周りに合わせて、期待に応え続けた。
そうしているうちに、誰かの前に立つたびに“仮面”をかぶるようになった。
本当の自分を隠すことが、すっかり癖になっていた。
悲しくても、苦しくても、どんなに悩んでいても、常に笑顔でいようとした。
この頃、よく言われていたのは「悩み事ないでしょ?」「いいよね、お気楽で」だった。そうした周りの声が、更に私を傷つけた。
いつの間にか、完璧であろうとする自分が出来上がっていた。
人に嫌われないように、欠点を見せないように。
頑張って、笑って、誰よりも動いて。
そのうち、気合いを入れないと笑えなくなっていた。
息苦しかった。
でもその息苦しささえも、“これが普通”だと思い込んでいた。
20代で結婚し、母親になってからは、「ちゃんとした大人でいなければ」「恥をかかせてはいけない」と、自分をさらに押し込めるようになった。
母として、妻として、完璧であることが当然だと思いながら。
けれど、“完璧を演じる私”の奥に、いつのまにか“本当の私”はいなくなっていた。
🎧 読むだけでは届ききらない部分を、声でゆっくりお話ししています。
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