世界一くわしい革花の専門書

革花(かわはな・レザーフラワー)の作り方や染色・成形などの技術記録とあわせて、革花作家としてものづくりを続ける中で、生きづらさから少しずつ抜けていった心の変化や考え方を綴っています。心を整える視点や日々の気づきを、暮らしと制作の記録としてまとめたブログです。

このブログは、革花作家としてものづくりを続ける中で、私自身が生きづらさから少しずつ抜けていった 心の変化や気づきを記録しています。 革花の技術の話も心の話も、どちらも「生きること」の一部として綴っています。

※「世界一くわしい」とは、一人の作家が歩んできた過程と気づきを、 技術と心の両面から、できる限り丁寧に残しているという意味で使っています。

🔎 記事を検索

模倣される苦しみと向き合って分かった、作家としての本当の強さ

ものづくりを始めてから、SNSを使用するようになり、多くの場所で作品の模倣について投稿されているのを目にしてきた。それは、インターネットの世界だけでなく、現実世界でも度々話題にあがる。

今日は、そんな【模倣】について、9年間、作家活動をしてきた私の視点で考えを書こうと思う。

オレンジの革花アクセサリー。緑の中央にシルバービーズを縁取り、箱の台紙に「One Off Kao」ロゴ。手仕事の凹凸が美しい。

作家仲間から聞いた「模倣された体験談」

作品を模倣された作家さんが感じた衝撃と怒り

作品というのは、作家が試行錯誤の末に完成した、たったひとつの世界だ。

それは、見る人の心をグッと惹きつけ、一度心を掴まれたら、その作品の魅力にとりつかれてしまうような不思議な力を持っていると思う。

作家活動をしていて、一番目指したいと思っていたのは、そんな作品を作ることだった。

以前、ハンドメイドイベントで、作家さんが、お客さんだった人から作品を模倣され、それを堂々と販売していたという話を聞いたことがあった。声をかけても、悪びれる様子もなく、胸を張って自分の作品だと言わんばかりに販売をしていたと。

当時の私は、それが衝撃で驚きを隠せなかった。

作品というのは、その人にしか作れない唯一無二の世界だと思う。

無論、まねされたものは、いわゆるコピー商品であって、自分の作品ではない。

自分以外の誰かが創造した世界は、誰も覗くことができないのだから、当然だ。

まねしたからと言って、色や形は似通っていても、全くの別物。それが、とてつもなく似ていたとしても、こだわりやその人らしさが作品ににじみ出ることはありえない。

作品から醸し出されるすばらしさだって、見た目が似ているだけでは到底まねできるものではないのだ。

模倣された作家さんが抱いた恐れと、私の疑問

けれど、そのまねされた作家さんは、とても恐れていた。

自分の方が「まねしたのでは?」と疑われるのではないかと。

私は、それを聞いて、どうしてそんなことを考えるのだろう?と疑問に思った。その作家さんが試行錯誤して完成させた大切な作品なのに、それをまねされただけで、そんなに恐れることはないのに、と。

実際に作品を見比べると、「自分が作ったものとは違うな」と、違いが分かったとも言っていたし、何の問題もないはずだ。技術の高さまで完全にまねできるわけがないし、販売を始めてからの時間経過を追えば、すぐに分かることなのだ。

だから、「大丈夫だよ」と、私はその作家さんに伝えた。

 

作品を模倣された経験から気づいた、本当の恐れ

それから約2年後、私も、同じような出来事に悩まされた。

インスタグラムで、他に革花を作っている人がいるだろうかと検索したとき、モチーフも色も形も、周りにない特徴的なデザインさえも、ほぼ私の作品と似たものを投稿していた人がいたのだ。

革花作家として活動してから3年ほど経ち、周りには革花を作っている人がほとんどおらず、まだSNSでも見かけることがなかった。だからこそ、見つけたときには衝撃だった。

私があれほど時間をかけて作ったものなのに、どうしてこんなことをするのかと、怒りが湧いてきた。

それは、ただ模倣していたからではない。

モチーフも、色も、デザインも、すべて私が作ったままのものを【まねしただけ】のものなのに、「丁寧に時間をかけて大切に作りました」と書かれていたことに対して、怒りが湧いたのだ。

私が、一体どれだけの時間をかけて、ここまで作り上げてきたと思っているのかと、とても腹が立った。

作家としてのプライドだけでなく、人として、嘘で塗り固められた薄っぺらい言葉をのせたその作品を、よく悪びれることもなく公の場に出すことができたものだと、呆れてしまった。

正直、まねされたその作品は、私の作品を知っている人が見れば「まねただけのもの」だと分かるほど、技術もまだ初歩的なものだったし、過去の作品を遡れば、この人の世界観でないことは誰が見ても明らかだった。

それなのに、気持ちは怒りから「恐れ」へと変化していった。

このまま、この人が作ったものが【本物】だと言われてしまったら?

私が時間をかけて作り上げてきたものを、この人の作品として知名度を上げられてしまったら?

私が大切にしてきたものすべてを奪われてしまうかもしれない。

そんな不安に襲われた。

以前、まねされたと言っていた作家さんも「こんな思いをしていたんだな」と、話を聞いた当時の出来事に自分を重ねて苦しくなった。

模倣を恐れず、まねできない技術を磨く選択

まねできない技術を磨くという覚悟

あまりにも不安になった私は、仲良くしていた作家さんに相談してみた。

私が作った作品と、模倣された作品の投稿画像を見せると、

「たしかにまねされるのはすごく嫌だけど、まねしたくなるほど素敵なものを作ってるってことでもあるから、自信持っていいんじゃない?」と、想像もしていなかった言葉が返ってきた。

加えて、「まねしたとしても、全然再現できてないし、これは明らかに別物だよ。」と。

それを聞いた私は、心底ほっとしていた。

良かった。ちゃんとわかってくれる人がいるんだと。

ここに至るまでの苦労を知る人だけでも、私のことを分かってくれていた。それだけで心が救われた。

それから私は、考え方を変えた。

模倣されたからといって、それまでの努力や技術の高さまでをまねできるものではないし、どんなときも、自分の作品に自信を持とうと思った。

作品が完成してSNSに投稿するときも、作品を「見せない選択」をするのではなく、「見せてもまねできない技術で作る選択」をした。

私にしか作れない作品とは何か

世の中には、いくらでも手先が器用な人がいる。だから、ある一定ラインまでは、どうしても見ただけで作れてしまう人も存在する。

正直、そういう人たちに、ものづくりのなんたるかを語ってほしくないけれど、私が一人でそんな人たちに対抗したところで何の変化も生まないのだ。

それなら、「どうやって作ってるんだろう?」と頭を悩ませるほどの作り方をしたらいいのではないかと考え方を変えた。

巷にあふれるデザインではなく、「この人にしか作れない作品」だと言われるような、素敵なものを作り続けること。

それが、ニセモノに対抗する一番の策だと思ったからだ。

 

模倣されたときに心を強く持つための学び

今になって、当時の気持ちを思い出すと、模倣されたときに感じていた気持ちは怒りではなく悔しさだったのだと改めて感じる。

作品を完成させるまでに、どれだけの時間をかけてきたのかなんて、作品の裏側まで知っているのは自分自身しかいないからこそ、大切にしてきた時間まで侮辱されたように感じて、悔しかったのだろう。

けれど、その出来事があったおかげで、私はぬるま湯につかり続けなくて済んだ。

ライバルはいつだって存在するということ。手抜きをすれば「作れるかも」と、すぐまねされてしまうこと。

私だけの世界を表現することを一番大切にしなければ、私がものづくりをしている意味がないということ。

それを気づけた、いい機会だった。

今となっては、その出来事に感謝している。


もし、あなたが同じように模倣されたことで、悩んだり、つまづいたりしているとしたら、下を向くことなく堂々と作品を作ってほしいと思う。

それまでの努力を知っている自分自身にしか分からない世界かもしれないけれど、それでもあなたが作品に向き合い続けてきた時間や努力は無駄になることはないから。

結局のところ、模倣するということは、自分の世界を創造することができないということだ。

だから、放っておけばいい。

そんな人は、あなたを追いかけてくることはあっても、あなたの前を走ることは決してない。

積み重ねた時間が、それを証明してくれる。

だから、どんなことがあっても大丈夫。

怒ったり、悩んだりすることにエネルギーを使うより、この出来事から学べることは何か?と、自分自身に向き合って、今足りないものがないかを考える。

そして、必ずそれを生かして前進する。

模倣されたときの対処法は、それに尽きると思う。


💡関連記事:
▶ この記事の背景となった出来事は、下記の記事で綴っています。
第11話|ハンドメイド作家が語った“模倣の苦しみ”と、私が考えた作家のプライド

この記事は、「ものづくりで生きるということ」というカテゴリの中の一編です。
これまでの経験から生まれた学びや気づき、そして悩んだときにどう向き合うか──
考え方や心の在り方について綴っています。
同じように迷っている誰かの、小さな支えになりますように。

ものづくりで生きるということ

プライバシーポリシー | よくある質問 | お問い合わせ